塾長プロフィール

1962年、大阪生まれ
在学中に学習塾講師を務めたのをきっかけに、これが生涯の天職となる。
在職中は東大寺、洛南、洛星、大阪星光、同志社などの最難関校に1名でも多くの合格者を出すべく、泣く子も黙る超厳しい先生として腕を振るう。
1998年、第一子を授かったのをきっかけに独立、3DKのマンションの一室でSBIを開校。「理想の塾構想」が産声を上げた。
2001年、八幡小学校前に教室移転。
試行錯誤を繰り返しながらも、「塾長直接個別指導」という独自のカテゴリーを切り拓き、理想の塾構想の完成形へと昇華させる。
2009年、現在の欽明台教室に移転。
子供の能力を引き出すこと、そして自信を身につけた子供の笑顔を見ることに無上の喜びを感じ、現在に至る。
趣味・特技
・ITマニア(PC関連からサーバー構築、ネットワーク関連に至るまで、その知識はプロレベル。
このホームページも外注せず、すべて自分で作っています。)
・クラシック音楽(中学時代からずっとコレです。なので、流行りの音楽はまるっきりダメです)
大事にしていること
・約束を守ること、感謝すること、自分を信じること
長所・短所
・何でもかんでも自分でやってしまうところは、長所でもあり短所になることも。。。
・初めての子でも、学力状況を一瞬で見抜く眼力は長所かな。
・典型的なB型らしく?わがままなところがあるそうです。
・でもA型人間のように、几帳面でキッチリしている方です。
食べ物の好み
・納豆は絶対に食べられません。ムリです。 人類が食べるものではないと固く信じています。
・麺類、特にラーメンをこよなく愛しています。「死ぬ前に何が食べたい?」と聞かれたら、迷わず
「天一のラーメン」と答えるでしょう。
・沖縄旅行で食べた「沖縄そば」の味がどうしても忘れられません。どなたか美味しいお店をご存じの方、ぜひ教えて下さい。



はじめまして。
SBI個別パートナー 代表の岡本です。
本日は、数ある学習塾の中から、私たちのホームページを訪れていただき、ありがとうございます。
現在、私は、京田辺市・八幡市・枚方市の境付近にある欽明台というところで学習塾を営んでいます。
もうかれこれ30年以上、受験指導に携わり、たくさんの子どもたちと出会い、そしてその成長と合格の喜びを見届けてきました。
子どもが自信を深め、成長する姿と笑顔を見ることが、私のなによりの喜びです。
ところで、我が子を預ける塾を選ぶとなると、正直少し不安な気持ちになってしまうのではないでしょうか?
「ここは本当に信頼できる教室なのか?」「先生はどんな人なのか?」「きちんとした設備や教材は揃っているのか?」と考え出すといろいろ心配も出てきますね。
このような、お母さまの不安な気持ちを少しでも解消できるように、教室の代表を務める私がどんな人間なのか、また、どうして「塾長直接指導の個別指導」を始めたのかをお話したいと思います。
少し長くなりますが、聞いてください。
私の恥ずかしい子ども時代

実は、私がかけ算の「九九」をちゃんと言えるようになったのが、小学校4年生に上がる少し前だったと記憶しています。
「えっ! そんな~」なんて声が聞こえてきそうですが、本当の話です。
実は私の小学校時代、6年間でなんと4回も転校したんです。
だいたい想像がつくかと思いますが、当時の私としては勉強どころではなかったんだろうと思いますね。
新しい学校に来て、とにかく新しい友だちを作って・・・
と思っても、なかなか相手にしてもらえず子ども心に悩んだことも多かったのです。
というのも、その頃の私は、勉強なんてそっちのけで、友だちづくりにばかり気が向いてしまっていました。
当然ですが、成績は極度に悪く、みんなからは「バカ」のレッテルが貼られてしまう有り様です。
そして友だちになってもらえるどころか、逆にバカにされてしまっていたくらいです。
やっと相手にしてくれる友だちができても、いつの間にか転校になってしまい、また一からやり直さないといけないことが続いたのです。
6年生の頃は、学校の成績は、もう落ちるところまで落ちてしまったくらい最悪でした。
転機となった中学進学、そして恩師との出会い

中1に上がってすぐ、家庭訪問がありました。
私は家で父親と一緒に先生が来るのを、内心もうビクビクしながら待っていました。
「何て言われるだろう・・・?」
「こんな小学校の成績ではこれからついて行けなくなりますよ・・・」
「頭が悪そうだから、これからはもっとちゃんと勉強しなさい・・・」
いろんなことを想像しながら、固唾をのんで待っていたのです。
そして、ついに我が家に来られ、父親に向かって言われたことが、
「素直で立派なお坊ちゃんですね」
「これからが大変楽しみなお坊ちゃんです」etc・・・
「え! なんで? ウソー!」っていうほめ言葉を耳にしたのです。
父親は黙って聞いていました。
そのすぐあと、学校でも先生に、「これからしっかりがんばってみなさい。」という内容の励ましの言葉をもらいました。
そのときの私の気持ちは、正直、天にも昇ろうかと言うくらいうれしかったことを、今でも鮮明に覚えています。
はじめて他の人から認めてもらえたような気がしたからです。

そして決意したことが、
「この先生にもっともっと認めてもらえるくらい勉強して、いい成績を取ってやろう」
ということでした。
その担任の先生の名前は、堀先生といいます。国語の先生でした。
実はずっと後になって知ったことですが、あるテレビのお正月番組で「トミーズ雅&健の恩師の先生、登場!」ということでその堀先生がテレビに出てきたのです。
ホントに驚きました。
トミーズとは3年違いで中学も高校も同じということは知っていましたが、恩師の先生まで同じだったなんて・・・
話しは元にもどりますが、堀先生にもっと認められようと、死にものぐるいの勉強が始まりました。
勉強のやり方なんて全くわからなかったのですが、それでも自分の時間の大半を勉強に費やしました。
やがて学区内でも指折りの進学校にも進学でき、勉強に対してもかなり自信がついたと思います。
合格実績を追う日々

20歳に時、八幡市橋本駅近くにある、名もない小さな学習塾(現在はありません)に講師としてアルバイトを始めたのがそもそものきっかけでした。
教えれば教えるほど、生徒たちもがんばってくれて成績を上げていく子どもたちがどんどん増えていったのです。
私自身も教える仕事に生きがいを感じ、これは天職だと思って就職活動もせず、そのままその塾に社員として勤めることになりました。
やがて、塾の合格実績もすこぶるよくなり、私は教室長(当時は塾長と呼ばれていましたが。。)となって塾全体を任されるようになりました。
私が30歳を過ぎる頃、業績も絶好調を迎えるようになっていきました。
こんな小さな塾で、洛南Ⅲ類(特奨生)、東大寺学園、大阪星光学院、同志社、洛星、奈良学園、帝塚山といった指折りの難関校に毎年合格者を出すまでになっていったのです。
「合格実績は塾の看板」・・・当時、私はそう信じ込んでいました。
ある異変。。 そして衝撃の一言

30代も半ばを迎えた頃、これから私が結婚して生まれてくるであろう自分の子供のことを考えるようになりました。
「自分の子どもを、この塾に入れたいだろうか?」
なぜか答えはいつも、Noでした。
どうしてなのかはっきりした理由はわからなかったのですが、Noだったのです。
人様の子にはよかれと思ってやっていることを、自分の子にはできないというジレンマを抱えてしまっていたのです。
ちょうどそんな頃、一人の生徒(Aくん)が私にこんな一言を残して、塾を去っていきました。
『先生は頭のいい子は一生懸命応援するけど、ボクはどうせやってもでけへんし、ついていかれへん・・・』
ガ~~ン! もう本当にショックでした・・・
頭を金槌で殴られたような衝撃でした。
と同時に、なぜ私が自分の子をこの塾に入れる気がしなかったかの理由もはっきりしたのです。
-
「もし私の子が塾に通うようになって指導ラインからはずれた位置にいたとしたら・・・」
-
「もし私の子が物事を理解するスピードが少しだけ他の子より遅かったら・・・」
-
「もし私の子がクラスの下の方にいるとしたら・・・」
そして、忘れかけていたあの堀先生のことも思い出したのです。
堀先生は、勉強が全くできない自分を認めてくれ、そして励ましてくれました。
だからこそ今の自分があるのです。
勉強ができない子どもを、受け入れてくれて見事よみがえらせる、そんな堀先生へのほのかなあこがれみたいなものが、私に「教える」という仕事に向かわせたはずです。

こんなに強い挫折感を味わうのは、生まれて初めてでした・・・
そして、「一斉指導の限界」を身をもって体験することになったのです。
さらに追い打ちをかけるように、Aくんと同じように、一人、また一人と辞めていったのです。
そして辞めていく生徒たちは皆、クラスでも成績が下位の生徒たちばかりでした。
合格実績を追うあまり、クラスの上位層に力を入れていたのは確かです。
そして、成績が下位の生徒には、「もっとがんばれ」「もっと勉強時間を増やせ」などと、できない理由を生徒本人の責任にしてしまっていたのです。
今から思うと、本当に恥ずかしいことです。
本来ならそのような生徒たちには、手厚く補習を行ったり一人ひとり個別にフォローしてあげるべきだったのですが、当時は物理的にもそんな時間はどこにもありません。
「もうこんなやり方は私にはムリだ・・・」
塾の絶好調の合格実績の裏側で、私は密かにもがき苦しんでいたのです。
ある決断。。

そんな折、妻の妊娠を知りました。
とてもうれしいことなのですが、それとは裏腹に「とうとう生まれてきてしまう・・・」という、今から思えば変な不安に包まれました。
「この子の勉強はどうしてあげたらいいんだろう・・・」
「私の遺伝子を受け継いでいるからには、あまり勉強ができる方ではないかも・・・」
だんだん大きくなる妻のお腹を見ながら、うれしさ半分、不安半分という複雑な気持ちになっていたのが正直なところです。
ある日、妻と買い物から歩いて帰っていく途中、妻が何気なく、
「向かいのマンションの1階、ずっと空いてるねぇ・・・」と言いました。
と、そのとき、私の頭に稲妻のようなアイデアがひらめきました。
「そうだ! 自分が理想に思える塾を、自分でやればいいんだ!」
そう思った私は、早速、塾のオーナーに対して退職願を出しました。
そして自分の塾を開くことを打ち明けました。
当然ですが、猛烈な反対がありました。
そして、脅迫もありました。
もし、同じ商圏内(八幡市)で新しく塾を開けば、どんな手段をとっても潰してやると・・・
不安はありましたが、家内が言ったマンションの1階(3DK)を賃貸契約し、そこで新しく開塾したのです。
「よ~し! 理想の塾を創るぞ~~!」
1998年、理想の塾構想のスタート元年です。
成績の善し悪し関係なし。
どんな子でもすべての生徒を現状のまま受け入れ、昔の私と同じように自信に満ちあふれた子どもによみがえらせる・・・
あ~、惨敗。。。

しかし、いざ塾を開いてみると、理想を掲げたチラシを撒いたところでそうそう生徒が集まってくれるわけではありませんでした。
厳しい現実が突きつけられました。
- 初月は生徒ゼロ・・・
- 乳飲み子を抱え、生活費もゼロ・・・
このままでは、何をしていることか本末転倒です。
それでも、これまでの実績を聞きつけた方たちから問合せがあり、少しずつ生徒数も増えていきました。
今では当たり前のように聞かれる「個別指導」という言葉ですが、その当時はそんな言葉はほとんど聞かれなかったように記憶しています。
(現に、私は知りませんでしたし、そんなめんどくさいこと?やってられないと思っていました。)
ですが、私の理想では、一人ひとり、その子の状況に応じて全く別に指導する必要がありました。
私一人ではどうすることもできず、悩んだあげく、学生アルバイトを雇うことにしました。
それも全く知らない学生はさすがに抵抗があったので、私の教え子に片っ端から連絡して講師のアルバイトはどうかと打診したのです。
狙いどおり、すぐに講師は確保できました。
メインは、京大生、阪大生でしたが、私の教え子という、私の指導のイロハをたたき込まれている学生です。
「よし! これでいけるぞ!」
生徒一人ひとりの現状と課題を確認しあいながら、個別に指導するという初めての試みでした。
ほぼマンツーマンに近い状態で徹底的に教えていきました。
そして初めての定期テストの結果です。
結果・・・
あ~、惨敗!!
なんで? どうして!?
今でも忘れません。成績が上がった、という声を聞くどころか、下がってしまった生徒が圧倒的に多かったのです。
かろうじて私が直接教えた生徒の科目は、結構上がっていました。
しかしトータルで見れば、完全に「敗北」です。
分析、そして見えてきたこと。。

いろいろ分析した結果、いろんな事が浮かび上がりました。
私の教え子である彼ら講師は、学力的には申し分ありません。
もちろんです。そのように育て上げたわけですから・・・
ただ、一点、苦言を言うとすれば、皮肉にも、「優秀すぎた」のです。
それは、「生徒に一度教えてわからせたことは、ちゃんと頭に入っているだろう」という安心感でした。
今、これを読んでいるお母さんもおわかりだと思いますが、一度わからせたからといって、それで「できる」ようになるとは限りませんね。
優秀な学生は、一度で自分の弱点を克服して身につけてしまう代わりに、成績のよくない子の弱点を克服する方法を知らなかったのです。
テストが終わってしばらくしてから、私は本当に悩みました。
「どうしたらいいんだろう?」
「この子たちに自信をつける方法はあるんだろうか?」
「私がやりたいことと逆行しているのでは・・・」
ひとつ、答えが出たのは、
「どんな優秀な学生も、自分の経験値からしかアウトプットできない」
ということです。
当然といえば当然です。
勉強に限らず、われわれ大人も同じです。
自分の経験値にないものを補うのが、研修であったり読書などであったりしますから。
私が採用した学生講師たちも、自分のこれまでやってきた勉強の仕方でしか教えられなかったのです。
新たなる決意

そこで考え出したのが、
「塾長としての私が生徒全員を直接個別に指導する」
というやり方でした。
理解度もスピードも性格も全く違う生徒一人ひとりに対して、私がそれぞれにピッタリ合ったやり方で直接指導するというものです。
◆ 同じ学年であっても、テキストも違えば、やる内容も生徒ごとに決める。
◆ 学習する手順も一人ひとり最適な方法で行う。
◆ その場その場ですぐ質問できて、疑問点は見逃さずにきちっと解決させておく。
◆ 授業の時間割も自分で決められるようにしてあげる。
◆ そして何より、どの生徒も、「自分の子供だったらどうしてあげたら一番良いか」を基準値として、《長年の経験を生かした、最も効果的な方法》で指導していく・・・
かつての私の悩みを完全に吹き飛ばし、まさに理想といえる指導スタイルです。
これなら、たとえわが子であっても安心してゆだねることができます。

でも、確かに生徒にとっても私にとっても理想的なのですが、教える側、つまり「私」としては大変です。
私の体は一つしかないのに、こんなことが実現可能なのでしょうか・・・?
実は、それからの数年間というのは、理想の教務システムを作り上げるための試行錯誤の連続でした。成功も失敗も多々ありましたが、実際の成績面で結果を出しながら、改良に改良を重ねていきました。
そして長い時間をかけて、ようやく自分なりに納得のいく塾作りができたと思っています。
でも、SBIの進化はまだまだ続きます。
恐らくこれからも、改善改良の連続でしょう。でもその根底にあるのは、どんな子もやればできるということを、すべての生徒たちで実証させたいという想いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。